大嘗祭とは
大嘗祭は、天皇御即位初の新嘗祭である。
「大嘗」はオオニへと訓み、オホムベ、 またはオンベとも称された。
延喜の制では、践杵大嘗祭と称し、これのみが大祀となっていた。
『延喜式』には毎年の新嘗祭の宮中におこなわれるものを大嘗祭といい、御一代
一度の大嘗祭はとくに践作大嘗祭とされていたのである。のちに大嘗祭といえば践布大嘗祭のことで、毎年のそれは新嘗祭と呼称することになった。
「大嘗」の意は、「職員令」の義解に、
新穀を嘗して以て神祇を祭るなり。朝は諸神の相嘗祭、夕は新穀を至尊に供す。
とあり、また「神祇令」の義解に、
天皇、即位したまはば 天神地祇を怒祭す。
とあり、御即位後はじめて新穀を聞こしめすにあたって天神地祇を祭られる儀と解することがで きるが、それがなぜ、唯一の大祀としなければならないほど重大な祭りであるのか、どのような 意義をもっているのかについて考察を進めてみよう。
国郡ト定
大嘗祭(践作大嘗祭)は、十一月下卯(卯日三回のときば中卯)の日にはじまり、辰、巳両日の節会、午日の豊明節会にいたるまで四日間にわたる盛大な儀式であった。
それは天皇の御即位が七月以前ならばその年、八月以後ならば翌年におこなわれた。これは稲の生育の関係による。
まず、悠紀·主基の国郡をト定し、検校と両所の行事を定め、斎田において稲の耕作がおこなわれた。
悠紀とは「斎忌(斎み清まわる意)」、または 「斎城(聖域の意)」であり、主基は「次(ユキに次ぐ 「意)」と解されている。
悠紀・主基は、はじめて史にみえた天武天皇二年のときは、播磨国と丹波 国であったが、以後、別掲のように概ね京より東に悠紀、西に主基が選ばれた。
ト定は亀トといって、の甲を焼いてその亀裂によって神意を判じる方法である。
最初に悠紀斎郡の中から各国と主基国とがト定され、 次にその両国の中から斎郡がト定され、さらにまた両斎郡の中から各 斎田が点定された。