祭りとイベント

 「祇園祭は壮大なイベントである」という言葉をしばしば聞く。ところがイベントという語は行事を意味するが、本来は一回限りの出来事とか、事件の意であるのに対して、祭りは神の存在を前提とし、神に祈り神をたたえて行うものである。それは儀礼を中心として、そこに風流や芸能を伴った賑わいの行事が加わり、祭礼ともなる。したがって「祭り」と「イベント」とは本質的に異なるものである。

 近頃、行政サイドで行われる○○マツリが流行している。それが神社や寺院の宗教行事、つまり神の祭りと結び付いている場合はともかく、それらとは無縁の観光目的、ないしは単なるリクレイションである場合、たとえ多数の人々を集めることが出来たとしてもそのとき限りのものであって、永続させることは難しい。これを永続きさせようとして、毎年同じことを繰り返していると、必ずマンネリ化して飽きられる。何か目新しい企画をして人々の興味をそそらないと決して永続きしない。それがイベントである。

 しかるに神の祭りは、本来、住民の内的欲求に基づき、生産の増大とか、災厄除去を祈り、また感謝するところに発し、その初心に還り、始源の状態を繰り返すところに特質がある。そして、少なくとも一年に一度は盛大な祭り行うことによって、社会の活性化を図ることになる。それ故、同じことを繰り返して飽きない。たとえ新しい要素が加わるとしても本質的な部分は変わらないし、変えてはならないのである。それが伝統を形成する。

 地球上のあらゆる民族は社会生活を営む限り、大なり小なりそうした祭りを行って来たし、現に行っている。そこでは神の前に誓い、祈る、また神をたたえる、いわゆる祭りを行うことによって、集団の社会的統合を達成し、精神的連帯を強化するのである。祭りにはそうした社会的機能がある。

 「祇園祭は壮大なイベントである」という言葉をしばしば聞く。ところがイベントという語は行事を意味するが、本来は一回限りの出来事とか、事件の意であるのに対して、祭りは神の存在を前提とし、神に祈り神をたたえて行うものである。それは儀礼を中心として、そこに風流や芸能を伴った賑わいの行事が加わり、祭礼ともなる。したがって「祭り」と「イベント」とは本質的に異なるものである。

 近頃、行政サイドで行われる○○マツリが流行している。それが神社や寺院の宗教行事、つまり神の祭りと結び付いている場合はともかく、それらとは無縁の観光目的、ないしは単なるリクレイションである場合、たとえ多数の人々を集めることが出来たとしてもそのとき限りのものであって、永続させることは難しい。これを永続きさせようとして、毎年同じことを繰り返していると、必ずマンネリ化して飽きられる。何か目新しい企画をして人々の興味をそそらないと決して永続きしない。それがイベントである。

 しかるに神の祭りは、本来、住民の内的欲求に基づき、生産の増大とか、災厄除去を祈り、また感謝するところに発し、その初心に還り、始源の状態を繰り返すところに特質がある。そして、少なくとも一年に一度は盛大な祭り行うことによって、社会の活性化を図ることになる。それ故、同じことを繰り返して飽きない。たとえ新しい要素が加わるとしても本質的な部分は変わらないし、変えてはならないのである。それが伝統を形成する。

 地球上のあらゆる民族は社会生活を営む限り、大なり小なりそうした祭りを行って来たし、現に行っている。そこでは神の前に誓い、祈る、また神をたたえる、いわゆる祭りを行うことによって、集団の社会的統合を達成し、精神的連帯を強化するのである。祭りにはそうした社会的機能がある。

 さらに祭りには生命の根源に対する感謝や崇敬が基調となっているのであるから、暮らしの中の道徳が生きている。これは行政サイドの○○マツリ、つまりイベントでは、いかに盛大に行われようと、有することのできない神の祭りに本有のものである。特に我が国の祭りの場合、あからさまに倫理徳目を掲げて教えを垂れるといった形ではなく、祭りの繰り返しの中で、祭礼行事の共同作業の連帯と協力の中で、おのずからに得られる観念である。   祇園祭の季節になった。この山鉾は本来、疫病等の災厄除去を希求して祇園の神を迎えるため、鉾を建てて祭ったに始まることは周知の通りだが、山や鉾には天神様・観音様・役行者・神功皇后等の人形が配され、飾り付けがなされる。日本の神話や中国の故事に基づいた作り物や、儒教・仏教・道教の教えさえ取り入れられ、西洋の物語りに取材するタペストリーの類いまでが用いられている。これは一神教の世界では考えられない日本の祭りの特色である。そして、そこにあらゆる要素を包容しながら、それを一つの祭りの中に調和しているところに祇園祭の特質があると言える。しかも、これは一回限りのイベントではなく、毎年同じことを繰り返し、町衆が協力し、伝統となっているところに意義がある。根本は祇園の神に対する信仰が生きているからである。

 さらに祭りには生命の根源に対する感謝や崇敬が基調となっているのであるから、暮らしの中の道徳が生きている。これは行政サイドの○○マツリ、つまりイベントでは、いかに盛大に行われようと、有することのできない神の祭りに本有のものである。特に我が国の祭りの場合、あからさまに倫理徳目を掲げて教えを垂れるといった形ではなく、祭りの繰り返しの中で、祭礼行事の共同作業の連帯と協力の中で、おのずからに得られる観念である。   祇園祭の季節になった。この山鉾は本来、疫病等の災厄除去を希求して祇園の神を迎えるため、鉾を建てて祭ったに始まることは周知の通りだが、山や鉾には天神様・観音様・役行者・神功皇后等の人形が配され、飾り付けがなされる。日本の神話や中国の故事に基づいた作り物や、儒教・仏教・道教の教えさえ取り入れられ、西洋の物語りに取材するタペストリーの類いまでが用いられている。これは一神教の世界では考えられない日本の祭りの特色である。そして、そこにあらゆる要素を包容しながら、それを一つの祭りの中に調和しているところに祇園祭の特質があると言える。しかも、これは一回限りのイベントではなく、毎年同じことを繰り返し、町衆が協力し、伝統となっているところに意義がある。根本は祇園の神に対する信仰が生きているからである。

      (京都新聞・平成5年7月9日掲載)

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