京の文化と祇園祭の信仰

 平安建都一二〇〇年の記念行事として開催中の「祇園祭大展」が好評を博している。千年の歴史を越えて、京都とともに唯一続いて来た祇園祭であるだけに、この祭りにかけた町衆の情熱は並々ならぬものがある。それが京都の文化を育て、祇園祭から展開して地方に伝播して行った。絵画・染色・織物・彫金・漆器・陶芸等の美術工芸から茶の湯・生け花のすべて京より発信して地方に普及して行ったが、それらがいずれも祇園祭に関わり、祇園祭を契機として京の文化を発達させた。例えば、山鉾の名宝、懸裝品の数々には十六世紀にベルギーで織られたタペストリーや中国の段通があり、一五、六世紀以来、勘合貿易や朱印船貿易を通じて、下京の町衆が集めたものである。町衆にはそうした懸裝品を整える財力と教養があったが、それがまた京都の織物・染色の技術の進歩に貢献した。

 懸裝品は壁代(かべしろ)で、それに囲まれた中は神の御座所を意味し、山鉾に飾られている人形も神の依代(よりしろ)で、神の姿を現す。本来は生稚児が舞ったり、猿楽を演じたものが固定化したのだが、大嘗祭の標山(しるしのやま)が山形を作って松を立て人形を飾ったのと軌を一にする。山鉾町の人々は実際に人形を神さまとして鄭重に扱っている。「祇園祭大展」では鈴鹿山の鈴鹿権現の人形を飾っているが、鈴鹿権現は鈴鹿山で悪鬼を退治したという瀬織津姫の神で、これには金襴の能装束を着せている。そのため観世流家元職分の分林保三師・弘一師父子は子供の頃から代々にわたって何十年来、精進潔斎の上、着付けに出向いてうやうやしく奉仕しておられる。

 船鉾の神功皇后の人形につける神面は、能面研究の大家中村保雄氏の考証によると、文安年間(一四四四~九)の社人の花押があり、我が国に現存する最古の能面である。林屋辰三郎氏は「祇園祭のビーナス」と名付けられた。これには天保四年に模作のもう一面があり、船鉾町では祇園祭の吉符入りに際して、二面の面改めが行われ無事を確認する儀式がある。さらに神功皇后人形は安産の神様としての信仰があり、御所方の信仰も厚かった。

 山鉾には能から取材したものが多い。芦刈山、菊水鉾、放下鉾、木賊山、白楽天山、橋弁慶山、それに長刀鉾(小鍛冶)鶏鉾・岩戸山(絵馬・三輪)、黒主山(志賀)、保昌山(羅生門・土蜘蛛)、浄妙山(頼政)等、前記の鈴鹿山も「田村」からの取材である。山鉾の完成した応仁の乱前は世阿弥が能を完成した時期でもあった。能の元は猿楽(申楽)で、申楽は神楽の示偏を省いたもの。神楽は神の影向(ようごう)を表す。山鉾の人形も能もともに元は同根の神事芸能から発達したものである。祇園祭がいかに厚い信仰に根差しているか、京都の文化がまたいかに深く祇園祭に関わっているかの証左であろう。人形はやはり地方に伝わって全国の山でも飾るが、いずれも京の人形師による作である。ここでも京都の文化が地方に伝わった経緯をうかがうことができる。

 今年は平安建都一二〇〇年に当たり、全国の祇園祭が京都に集合することになった。七月二十四日の後祭に四条通から河原町を経て御池まで、前夜は石段下と八坂神社境内での宵山の賑わいを現出する。祇園祭が地方に伝わってどんな展開をみせているか、その競演をみるのは今から楽しみである。

社会的統合の源泉                                           (京都新聞・平成6年4月26日掲載)

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