天武・持統朝と大嘗祭

平成二年十月十日の夜、NHK・TV教養番組で歴史誕生「女帝・持統天皇の悲願」と題して大嘗祭について取り上げられていた。そこでは、はじめは大嘗祭を古くから民間でも広く行われていた収穫に感謝し、新たなる再生を願う農耕儀礼である新嘗祭の拡充したものとして、かなり要領よくまとめていたが、大嘗祭となったのは、天武天皇の立案により持統天皇のときであり、それは壬申の乱を経て皇位についた天武天皇の皇后う野皇女(後の持統天皇)が、我が子草壁皇子を皇位につけようとしたが、三年有余の称制の間に薨じたため、孫の軽皇子(後の文武天皇)を皇位につけようとして権威づける為であったとし、しかも大嘗祭は天武天皇以前は行われていなかったかのごとく説明していた。

 

大嘗祭と令の制定

 大嘗祭の行われたことが記録の上で明らかなのは天武天皇のときからである。しかしそれ以前においてもなかったとは言えない。『日本書紀』清寧天皇二年十一月の条には、大嘗の料を採るため、播磨国に遣された使が市辺押磐皇子の子億計王・弘計王(後の仁賢天皇・顕宗天皇))を見出したことをいうのであって、この記事は『播磨国風土記』美嚢郡の項にも記されていて、ことさらに大嘗祭のことを記したものでないだけに信憑性が高いといわねばならまい。しかも畿外の播磨まで遣わされているのであるから、毎年の新嘗祭ではなく、御一代一度の大嘗祭と見られる。ただしその頃は未だ「大嘗」と「新嘗」の呼称の区別ははっきりしていなかった。『延喜式』の祝詞においても「大嘗祭」は宮中の新嘗祭のことで、御一代初のそれは特に践祚大嘗祭といった。しかし少なくとも天武天皇以前において大嘗祭が行われていなかったとは言えない筈である。

 NHKの「天武天皇のとき立案され、持統天皇のときから実施された」とし、それは持統天皇が草壁皇子ないし軽皇子を皇位につけようとした悲願の現れとする説明は、多分に偏見に満ちていると言わざるを得ない。大嘗祭に限らず、伊勢の神宮の式年遷宮も、天武天皇のお思召しにより持統天皇のときからはじめられたのであるが、それは当時の東アジヤ全体の国際的緊張の高まりの中で律令制による中央集権国家の確立が急務であったことの一環として行われたことであった。我が国が唐の制度に倣って律令制を施行するに当たって、いかにしてその中で我が国の伝統を生かすかに意を用いられたのであって、祈年祭や月次祭における諸国の神社への班幣にも見られるように、神祇の祭祀を一地方や氏族の祭祀から国家的規模に昇格拡大されたのである。そのことは、天武天皇から持統天皇、文武天皇にいたる頃の律令制の完成と時を同じくしているのであって、それは太古以来の伝統を令の制度として確立されたものとして理解する必要がある。

 大嘗祭も神宮の式年遷宮も、天武天皇ないし持統天皇のときから記録の上でも明らかになったことは認められるが、その以前を全く無視することは許されない。ことにNHK・TVではゲストとして登場したのは、山折哲雄氏(国際日本文化センター教授)と岡田精司氏(三重大学教授)であった。山折氏は大嘗祭は「タマ祭り」と「イネ祭り」の二つの要素からなると言っていたが、氏の「タマ祭り」とは、大嘗宮において天皇は先帝の遺骸に沿い寝をして、霊魂の転移をはかったというものである。そのことはさすがに放送されてはいなかったが、同氏のその説には筆者が既に反対意見を表明してある。 

 山折氏は「隠れた天皇霊継承のドラマー大嘗祭の比較」(月刊『Asahi』一九九〇・二)と題した論文で、外国の事例ーフランス王ルイ十世の葬儀で弟フィリップ王による王位継承儀礼、チベットのダライラマの死と新王の即位との間にみられる観念ーをも挙げながら日本における古代天皇の殯宮儀礼が王位継承に際して、先帝の遺体を完全に死んだものとはみなさず、社会的には、まだ生きているかのごとく扱うことで、空位の状態を回避することができたということ、第二が、殯は霊肉分離の過程を意味するが、その分離された霊魂を新王のからだに憑依される霊威転換のドラマを演出する場所が殯宮であり、それに続くのが大嘗祭の仮説された舞台であるとし、「死んだ古い天皇の遺体を葬る行為と、新しい天皇の誕生を告げる大嘗祭がひと続きの儀礼として切り離すことのできないものであった」というのである。前者の殯の期間が長期に及んだことの意については、肯定できる(例えば天武天皇の殯が、二年有余に及んだこと等)しかし、後者については同意し難い。山折氏は、「現実の大嘗祭がきわめて古い時期から先王の死にかかわる葬儀と明確に切り離された形でおこなわれてきた」が、その理由は「先帝の死の穢がそこに強く意識されるようになったから」であると述べ、

  先帝の遺体を媒介にして、「穢」の期間と「浄」の期間が明確に区分されるようになったのである。こうして律令に規定される「践祚大嘗祭」のタームは、より正確には穢のながでおこなされる「践祚」と浄のなかでおこなわれる「大嘗祭」という二つの観念の合成語として読まなければならない。

といい、そして穢のなかの大嘗祭は浄のなかの大嘗祭へのその性格を変えることによって「天皇霊の継承という秘儀的側面が闇のなかに隠蔽される一方それに変わって収穫儀礼側面に光があれられるようになった」とし、あるいは又「先帝の死と葬儀に結びつく契機を失うかわりに、秋の新嘗祭と結びつく契機をつよめていった」というのである。右の説の中で、まず指摘できるのは「践祚大嘗祭」の語が「律令」に改定されたと記しているが「践祚大嘗祭」の語がみえるのは『延喜式』である。令では単に「大嘗」というのも毎年の新嘗祭の宮中におけるものを「大嘗」といい、毎世のものをとくに「践祚大嘗祭」といったのであり、践祚のときに大嘗祭の辰日の儀にあたる祝祷の儀礼が行われたのであるから、山折氏にはまずその点に関する事実の誤認がある。さらに「穢のなかの大嘗祭が浄のなかの大嘗祭へ性格を変える」というのも奇妙な説である。「穢のなかの大嘗祭」と称するのは、イネの祭ではなくタマ祭とみて、それが「封印されてきた」という。それこそがまさに放恣な憶説である。同氏はまた穢をまとう「タマ祭りの要因が消去されて、淨らかな祝祷をともなうイネ祭りの要因が浮上して来た」というが、タマ祭りは一般に祖霊を迎えるものとされるあ、実は古くは祖霊もまた稲霊に帰したのである。稲を生命の根源とする思想からするならば、ニイナメの夜、稲魂を身に体することは祖神を迎えることにほかならなかったのである。

大嘗祭辰日の儀こそ本来の即位式

岡田精司氏はまた、神武天皇以来歴代天皇の即位式は正月に行われるのが通例となっていたのであり、大嘗祭は十一月に行われるのであるから、即位式とは関係の無い単なる稲の収穫祭であったという。それについても筆者は既に反対の見解を表明してある(拙著『大嘗祭』ほか)。それに対する同氏よりの反論は未だいただいていない。

 確かに、記録の上で古代に於ける即位式の模様が詳しく記されているのは、『日本書紀』の持統天皇四年正月の条である。持統天皇は、天武天皇が朱鳥元年(六八六)九月崩御せられた後、三年有余に亙る称制を経て、四年正月、即位式を挙げられた。蓋し、皇太子草壁皇子は病身で、即位に至らぬまま、三年正月薨ぜられたため、やむなく母后たる○野讃良皇女が即位せられることになったのであろう。

 正月元旦、物部麻呂朝臣が大盾を樹て、神祇伯の中臣大嶋朝臣が天神寿詞を読み、忌部色夫知宿禰が神璽の剣・鏡を皇后に奉った。公卿百寮は羅列して一斉に八開手を拍って拝礼した。これによって皇后は正式に皇位に即かれたのである。

 二日には、公卿百寮は元旦朝賀の礼と同様に、挿頭を挿して拝賀した。朝賀の次第は、中国風の儀式を取り入れて、焼香を行い、公卿百寮が拝礼し、万歳を奉唱するものである。 三日には、公卿を内裏にあつめて豊明の節会が催された。いうならば饗宴である。

 その年の秋九月、伊勢の神宮の遷宮が行われた。先帝天武天皇の思召しによる二十年一度の式年遷宮の始めである。これが第一回の遷宮となった(『神宮諸雑事記』)。

 翌五年十一月下卯日(二十四日)大嘗祭が行われた。『日本書紀』によると、「十一月戊辰、大嘗」とあるが、ここは「戊辰」の次に「朔辛卯」とあったものが、書写に際して脱漏したものとされていて、辛卯は二十四日で、その日は冬至であった。まさに冬至の日に大嘗祭が行われたことになる。このとき神祇伯中臣大嶋朝臣は即位式のときと同様に、再び天神の寿詞を読んだ。三十日、大嘗祭に奉仕した神祇官の長上以下百姓の男女に至るまで、またそのことに供奉した悠紀国の播磨、主基国の因幡の郡司以下百姓に至るまで饗宴がもたれて、それぞれに絹等を賜った。

 こうして持統天皇の即位式と大嘗祭は、四年正月と五年十一月に、いずれも壮大な即位儀礼として行われたのである。それは唐と対等の国家とすべく、律令制による中央集権国家として完成しようとしていた当時の我が国の国力を示すに足る儀式として、太古以来の伝統の上に、中国風の即位儀礼の様式を取り入れたものであった。

 令制によると、神祇令に

   凡そ践祚の日には、中臣天神寿詞を奏し、忌部神璽の鏡剣を上れ。

とあり、これは持統天皇の即位式、とくに正月第一日の式次第がもとになっていたことが判明する。ところが天神寿詞は元来は大嘗祭において奏されたものであった。そのことは寿詞そのものの内容によっても理解できる。

 『日本書紀』によると古くは正月即位の事例は多いが、暦が我が国にもたらされたのは百済の僧観勒によって推古天皇の十年(六〇二)のことであった。この暦の知識によって、正月即位の形が恒例化するとともに、それ以前の天皇にも当てはめて、神武天皇の橿原宮に到達したとみることができる。このことは井上光貞氏や倉林正次氏の指摘するところで、倉林氏は「推古朝を遡る時代に見られる各天皇の正月即位という設定は、飛鳥朝に形成されたその即位観に基づいて、逆に投影的に形作られた」とされている。それに対して大嘗祭は正月即位にかかわりなく、飛鳥朝以前から存在した。

 大嘗祭の儀礼次第は、卯日に神祭りあり、翌辰日に天神寿詞奏上と神璽の鏡剣献上があった。つまり卯日の夜の神祭りの後、辰日に即位式が行われ、その後、節会が開かれたのである。すなわち大嘗祭は、

  卯日 神祭り

  辰日 即位式

  午日 節会

という順序で行われた。これは日本の祭祀の基本的な構造である。古くは卯日(冬至の日)の神祭りは、大嘗宮に忌み籠って、そこで稲魂を食して日神の霊威を体現し、辰日、冬至から明けた一陽来復の朝には、解放されて群臣の前に姿を現す。この忌み籠りの状態をおわり解放されることを古語ではハルといい、ハレの状態となって、そこで行われるのが新天皇の即位式であり、天皇有資格者は大嘗宮の神祭りを行うことによって新天皇として誕生することができ、群臣の前に姿を現される。つまりハレの儀を行われる。それが辰日の儀である。この辰日の儀は正月即位という観念が現れて、卯日の神祭りから分離する形で暦日的に独立した即位儀礼となり、正月に位置することになったのである。すなわち元来は、大嘗祭の次に即位式のあったものが、七世紀の推古天皇朝に正月即位という形が現れて、前後関係が転換され、即位式が先に行われてのち大嘗祭が行われるという形になったものである。この形は、フユゴモリ(冬籠り)からハル(春)になるという、日本人の本来の季節構造に順応した儀礼であった。ところが正月即位の形が現れた推古天皇朝以後の時代になって、中国の王制を規範として大陸の様式にならったのである。

 中国には封禅という祭りがあった。天命を受けて王者となった者は、泰山に行って、天を祭り、地を祭る礼を行った。この封禅を行うことによって王であることを天下万民から承認されたのである。皇帝が自ら名乗っても、この封禅を行うことが出来なければ、天命を受けた王者として万民から認められるわけには行かなかったのである。この封禅の思想が生まれたのは秦漢の時代であったが、我が国の即位式に取り入れられたのは、中国の皇帝に対し天皇という呼称が用いられた頃、つまり推古天皇の頃からと思っている。

 『日本書紀』では雄略天皇のときが壇上即位の記事の初見であるが、その頃は未だ天皇のことを「大王」と称していたのであるからこれも推古天皇以後における天皇観ににより投影したものとみられる。したがって本来の我が国の即位儀礼はやはり大嘗祭であったとみられる。それは忌み籠り(フユゴモリ)において、日神=皇祖のミタマをうけ(ミタマノフユ)、明けてハレの状態となって群臣の前に現れるというものであった。単なる稲の収穫祭ではなく、太古以来の我が国固有の即位儀礼であった。

 NHKはこのように既に否定されている説を持つゲストを出して、いかにももっともらしく解説するのは、大嘗祭の意義を矮小化しようとと意図であろうか。あの映像を駆使して一般にアピールするのは、書物や論文の何千倍、何万倍もの力である。民放ならばまだしも、天下の公器を以てそのような偏った説をのみ流すのは甚だ遺憾と言わざるを得ない。                                                                      (続く)

大嘗祭と神宮の遷宮

神宮の式年遷宮の制は、天武天皇の思召しによって、二十年を以て式年と定められ、第一回の遷宮は、内宮が持統天皇四年(六九〇)、外宮が同六年に斎行せられて以来、中世戦国の世、百二十数年毎に亙って中絶したほかは二十年一度の式年は確実に守られて実施されてきたが、何故二十年を以て式年と定められたかは、種々説はあるがその理由はわからないといってよい。しかし、この式年が定められる以前はどうなっていたか。私見は、もとは御代がわりに際しておこなわれる大神嘗祭であったのではないかと思っている。それは、神嘗祭と新嘗祭が一連の祭儀としておこなわれていたとするなら、御一代初の新嘗祭を大嘗祭として一段と厳重におこなわれたように、神嘗祭も御代がわりの初めには一段と盛大におこなわれた筈であると考えるからである。

 持統天皇は四年正月、即位式が挙行され、その年の秋に内宮の第一回の遷宮が行われ、翌五年十一月辛卯日(二十四日、それはまさに冬至の日であった)大嘗祭がおこなわれ、さらにその翌年の六年に外宮の遷宮がおこなわれた。これは偶然ではなく、むしろそれが本来の姿ではなかったかと思っている。そして八年藤原遷都が行われた。

 少なくとも、新嘗祭が天皇の霊威の更新、神嘗祭は皇祖の大御神の神威の更新であり、大嘗祭が、御即位初の新嘗祭で、天皇がはじめて皇祖の大御神と御一体となられる御儀であるからには、その御霊威の根源である皇祖の大御神の御神威も、一段と厳粛にそのよみがえりを仰ぐべきものとされたに違いない。ただし、殿舎の建替えをはじめ、御装束・神宝のことごとくの作り替えを行うためには一定の年数を定めることが必要なために、二十年をもって式年と定められたのではないか。

 してみると神宮の遷宮は、二十年一度の大神嘗祭であり、大神嘗祭はまさに皇祖の大御神の神威の新たな甦りを仰ぐ最大最重の厳儀である。それは、宮中における大嘗祭とに相対応する大儀であるといえる。

 大嘗祭は、御一代初の新嘗祭であり、天皇が初めて新穀をきこし召すことにより、皇祖天照大神の霊威を体されて、大神と御一体となられる儀であり、これに対して神宮の遷宮は、二十年に一度殿舎のお建替えをして皇祖の大神の新たな御神威の甦りを仰ぐ儀であるという。このことは、皇居も御代ごとに遷都する例であったのが、持統天皇の藤原京より恒久的な皇居が営まれたことと照応する。

 大嘗祭においては、皇孫命、すなわち天皇は、ニニギノミコトという名に象徴される稲穂のにぎにぎしく稔った姿を体現される存在となられる。その稲は、皇祖天照大神より授けられた「齋庭の穂」である。それには皇祖=日神の霊威がこもっている。これをきこしめすことは、皇祖の霊威を身に体し、大御神とご一体になられることである。そういう意義をもっておこなわれるのが大嘗祭であり、それを年々くり返して霊威の更新をはかられるのが新嘗祭である。

 大嘗祭・新嘗祭は陰暦十一月中卯日に行われた。十一月中卯日といえば冬至の日の前後にあたる。太古においてはおそらく冬至の日であったろう。その日の亥刻(午後十時)はもっとも太陽の衰えた時刻である。その陽の極まった果てに、天皇は悠紀殿(新嘗祭では神嘉殿)に忌み籠って、夕御饌をきこしめして日神の霊威を身に体され、子刻(十二時)には一たん退出されるが、暁の寅刻(午前四時)再び主基殿(神嘉殿)に御されて、朝御饌をきこしめして、一陽来復、復活した太陽=日神とともに、天皇としての霊性を完成、または更新されて、若々しい「日の御子」「日継の御子」として、この現世に顕現されるものと解される。

 新嘗祭が十一月であったのに対して、伊勢の神宮の神嘗祭は現行は十月十六、七日であるが、古儀では九月であった。これは令制以後の姿で、より古くはどうであったか。おそらく両者一体の形で行われていたに違いない。

 天孫降臨神話が大嘗祭の投影であるとは既に大方に認められた説だが、天孫降臨とは、年々歳々冬至の日に、「日の御子」の出誕を実修したニイナメ儀礼の投影であり、ニニギノミコトとは瑞穂国の稔りを実現すべく、天上の稲をもって天降られたお方であり、ニイナメの実修を通して、新たな日神を迎え、日神の霊威を体して、瑞穂国の稔りをもたらされる存在であった。それゆえ、新嘗祭はニニギノミコトたる天皇の霊威の更新であるが、その霊威の根源は日神で、日神の神威もまた更新がなされていなければならなかった。

 神宮では神嘗祭と六月・十二月の月次祭を三節祭または三時祭といい、その前夜亥刻(午後十時)と丑刻(午前二時)に由貴大御饌を献る。由貴大御饌は、夕御饌は大嘗祭・新嘗祭と同じく亥刻であるが、朝御饌は一刻早い丑刻であるのは、天皇が稲魂を体して霊性を完成し、若々しい「日の御子」ニニギノミコト=皇孫として、太陽の復活とともにこの現世に顕現されるに先立って、その霊威の根源である日神、天照大神の神威もまた更新が為されていなければならなかったからであると考えられる。  かくして大嘗祭は、『延喜式』に唯一の大祀とされ、御一代最大最重の大儀であるとともに、神宮の遷宮もまた「皇家第一の重事」として斎行されてきた。ともにもっとも古い伝統を保持しながら、しかももっとも清新な生命の再生をはかるものとして繰り返されてきた民族のいとなみであるということができる。そして、それらのことが御代はじめの大嘗祭と二十年一度の式年遷宮の制度として確立されたのは天武天皇のお思召しにより持統天皇のときからであることは認められるが、それが壬申の乱によるとか、持統天皇の我が子や孫可愛さのために行われたというのは、余りにも歴史を矮小化したもので、それらはあくまで古代国家として完成するためのものであり、その中で、太古以来の神祇祭祀の伝統をいかにして調和せしめるかに腐心されたのが、天武天皇と持統天皇であったというべきであろう

 

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