天武・持統朝と大嘗祭

平成二年十月十日の夜、NHK・TV教養番組で歴史誕生「女帝・持統天皇の悲願」と題して大嘗祭について取り上げられていた。そこでは、はじめは大嘗祭を古くから民間でも広く行われていた収穫に感謝し、新たなる再生を願う農耕儀礼である新嘗祭の拡充したものとして、かなり要領よくまとめていたが、大嘗祭となったのは、天武天皇の立案により持統天皇のときであり、それは壬申の乱を経て皇位についた天武天皇の皇后う野皇女(後の持統天皇)が、我が子草壁皇子を皇位につけようとしたが、三年有余の称制の間に薨じたため、孫の軽皇子(後の文武天皇)を皇位につけようとして権威づける為であったとし、しかも大嘗祭は天武天皇以前は行われていなかったかのごとく説明していた。   大嘗祭と令の制定  大嘗祭の行われたことが記録の上で明らかなのは天武天皇のときからである。しかしそれ以前においてもなかったとは言えない。『日本書紀』清寧天皇二年十一月の条には、大嘗の料を採るため、播磨国に遣された使が市辺押磐皇子の子億計王・弘計王(後の仁賢天皇・顕宗天皇))を見出したことをいうのであって、この記事は『播磨国風土記』美嚢郡の項にも記されていて、ことさらに大嘗祭のことを記したものでないだけに信憑性が高いといわねばならまい。しかも畿外の播磨まで遣わされているのであるから、毎年の新嘗祭ではなく、御一代一度の大嘗祭と見られる。ただしその頃は未だ「大嘗」と「新嘗」の呼称の区別ははっきりしていなかった。『延喜式』の祝詞においても「大嘗祭」は宮中の新嘗祭のことで、御一代初のそれは特に践祚大嘗祭といった。しかし少なくとも天武天皇以前において大嘗祭が行われていなかったとは言えない筈である。 ... Read More | Share it now!

京の文化と祇園祭の信仰

 平安建都一二〇〇年の記念行事として開催中の「祇園祭大展」が好評を博している。千年の歴史を越えて、京都とともに唯一続いて来た祇園祭であるだけに、この祭りにかけた町衆の情熱は並々ならぬものがある。それが京都の文化を育て、祇園祭から展開して地方に伝播して行った。絵画・染色・織物・彫金・漆器・陶芸等の美術工芸から茶の湯・生け花のすべて京より発信して地方に普及して行ったが、それらがいずれも祇園祭に関わり、祇園祭を契機として京の文化を発達させた。例えば、山鉾の名宝、懸裝品の数々には十六世紀にベルギーで織られたタペストリーや中国の段通があり、一五、六世紀以来、勘合貿易や朱印船貿易を通じて、下京の町衆が集めたものである。町衆にはそうした懸裝品を整える財力と教養があったが、それがまた京都の織物・染色の技術の進歩に貢献した。  懸裝品は壁代(かべしろ)で、それに囲まれた中は神の御座所を意味し、山鉾に飾られている人形も神の依代(よりしろ)で、神の姿を現す。本来は生稚児が舞ったり、猿楽を演じたものが固定化したのだが、大嘗祭の標山(しるしのやま)が山形を作って松を立て人形を飾ったのと軌を一にする。山鉾町の人々は実際に人形を神さまとして鄭重に扱っている。「祇園祭大展」では鈴鹿山の鈴鹿権現の人形を飾っているが、鈴鹿権現は鈴鹿山で悪鬼を退治したという瀬織津姫の神で、これには金襴の能装束を着せている。そのため観世流家元職分の分林保三師・弘一師父子は子供の頃から代々にわたって何十年来、精進潔斎の上、着付けに出向いてうやうやしく奉仕しておられる。  船鉾の神功皇后の人形につける神面は、能面研究の大家中村保雄氏の考証によると、文安年間(一四四四~九)の社人の花押があり、我が国に現存する最古の能面である。林屋辰三郎氏は「祇園祭のビーナス」と名付けられた。これには天保四年に模作のもう一面があり、船鉾町では祇園祭の吉符入りに際して、二面の面改めが行われ無事を確認する儀式がある。さらに神功皇后人形は安産の神様としての信仰があり、御所方の信仰も厚かった。  山鉾には能から取材したものが多い。芦刈山、菊水鉾、放下鉾、木賊山、白楽天山、橋弁慶山、それに長刀鉾(小鍛冶)鶏鉾・岩戸山(絵馬・三輪)、黒主山(志賀)、保昌山(羅生門・土蜘蛛)、浄妙山(頼政)等、前記の鈴鹿山も「田村」からの取材である。山鉾の完成した応仁の乱前は世阿弥が能を完成した時期でもあった。能の元は猿楽(申楽)で、申楽は神楽の示偏を省いたもの。神楽は神の影向(ようごう)を表す。山鉾の人形も能もともに元は同根の神事芸能から発達したものである。祇園祭がいかに厚い信仰に根差しているか、京都の文化がまたいかに深く祇園祭に関わっているかの証左であろう。人形はやはり地方に伝わって全国の山でも飾るが、いずれも京の人形師による作である。ここでも京都の文化が地方に伝わった経緯をうかがうことができる。  今年は平安建都一二〇〇年に当たり、全国の祇園祭が京都に集合することになった。七月二十四日の後祭に四条通から河原町を経て御池まで、前夜は石段下と八坂神社境内での宵山の賑わいを現出する。祇園祭が地方に伝わってどんな展開をみせているか、その競演をみるのは今から楽しみである。 ... Read More | Share it now!

社会的統合の源泉

 祇園祭が全国から京都に集まる。十五団体十七基の山車、屋台、山笠等、いずれも京都に発祥して地方に伝わったもの。それらが本家の祇園祭に里帰りして七月二十三・二十四日の後祭りに参加する。  東北は秋田県角館町は小京都である。その角館囃しは、謡曲、長唄、乱舞などを取り入れ、また歌舞伎の名場面から借りた等身大の武者人形を乗せた曳山が華やかに街をねる。そのさい先後を決めるため山車のぶつけ合いも見ものの一つ。岩手県花巻まつりも、祇園祭の流儀にならった情趣に富んだ囃子とさつきの花巻が雅びな華やぎに彩る。  関東は茨城県日立風流物が高さ十五メートルからの巨大なからくりの山車で、六層の天守閣があり、囃子とともに各階ごとに両側に割れたなかから人形が飛び出す仕掛け。川越祭も氷川神社(八坂神社と同祭神)の祇園祭で、山車の彫刻あでやかな色彩の巻による豪壮華麗さは関東三大まつりの名に恥じない。熊谷の祇園祭も八坂神社の祭礼で、渋うちわを振るまったのでうちわ祭りと称する。七月二十二日が祭礼日に当たるが、済み次第夜行で駆けつけると手弁当で来てくれる。その熱意には打たれるほかない。  中部圏では、石川県小松市はむかし生糸の生産で京都の織物商とは密接なつながりがあった。そこの莵橋神社は延喜式内の古社で「お諏訪さん」の名で知られるが、八坂神社の神からは孫神に当たる。その曳山では子供歌舞伎「仮名手本忠臣蔵七段目一力茶屋の場」を祇園一力亭の前で上演することとなり、県市を挙げて応援し上洛する。静岡県大須賀町の三熊野神社大祭は「ねり」と称し、花差・万灯を重ね鍋蓋の上にだし人形を飾る。二台が参加。長野県大池舞殿祭は大榊をいただいた舞殿を曳き回す。愛知県足助祭も華麗な屋台で、お囃子が演じられる。犬山祭はからくり人形で白楽天を演じる。飛騨高山の屋台は解体できないため輸送できず、からくり人形が参加、「石橋台」を上演する。  中国筋では岡山県牛窓祭は船型の山車を女装の男性が笛太鼓の囃子にあわせて威勢よく曳くのが特徴。  九州は大分県日田の祇園祭も十メートルからの巨大な山で、見送りは京都の絵師が描いた。小倉祇園太鼓は、小倉八坂神社の祭りの太鼓、おなじみ無法松の一生で有名な「あばれ打ち」や「みだれ打ち」を披露する。巡行では花傘巡行に続いて先頭を行く。しんがりは博多祇園山笠。牛若弁慶の人形を飾ったかき山が参加、五百人からの人数が自弁で上洛する。博多っ子の心意気を見せようと、山を追って都大路を走り抜けると大張り切り。  外に京都府与謝郡加悦町の曳山が参加、これも子供歌舞伎「義経千本桜」を演じる。  ざっとこのような調子で、今年の祇園祭の後祭りは全国からの参加で賑わうことになる。いずれも八坂神社と同祭神または祇園祭の形態が伝わったところで、祇園さんを中心とする信仰につながる連帯意識がある。しかも全国各地それぞれ特色ある展開を見せつつ、それが祇園祭という壮大な祭典として統合が達成される訳で、京都市民も全国各地の人々もともに交流を深めつつ、ここに日本の祭りが社会的統合の源泉としての機能を有している典型が見られることと期待される。                                          ... Read More | Share it now!

昨日の非と今日の是

 西郷南洲翁の遺訓に   昨日の非は留むべからず   今日の是は執るべからず という言葉がある。前者は、昨日悪かったことをいつまでも留めおいてはならない、改めるに憚ることなかれ、というのであり、後者は、今日よしとすることは、採用してはならない、思いとどまって再考せよ、という意である。 もとより「昨日の非」を改める可きは当然のことだが、それがなかなかできないのが実情。例えば行政改革ひとつにしても、土光臨調以来あれほど喧しく云われながらほとんど改まっていない。食管制度の如きも、五十年前の戦時中の法令が生きたままで空文化していながら改めようとはされない。いったん決めたことは、たとえ「非」とわかっても容易に改めることができないで留めたままである。  さらに「今日の是」、今よしとされることも、明日はどうなるかわからないのが世の常。極端な例が、かつてエジプトの繁栄をもたらしたナイル河の氾濫を調節するために建設された、アスワン・ハイ・ダムは貯水容量一六三〇億立方米、発電能力年間一〇〇億キロワットという世界最大級のダムである。このダムが完成したあかつきは、大人造湖の水でアラブ連合は一段の工業化を進め、同時に広大な砂漠を潅漑して、一挙に国民所得を倍増できる筈であった。ところがそれが完成した一九七一年一月には、もうそのダムは「世紀の愚挙」と評され始めた。それはナイルの洪水がせき止められた結果、水源地帯の森林が荒廃し、かつて白ナイル・青ナイルから運ばれた沈積土と腐植土が氾濫の後に沃野としたものを、不毛の砂漠と化して、北東アフリカの生態圏は破壊され、エジプトは深刻な事態に陥って、二〇世紀最大の失敗とまで云われることになった。  わが国でもこれと似たような愚挙は枚挙にいとまない。八郎潟の干拓しかり、宍道湖の淡水化工事しかり、長良川の河口堰問題も果たしてどうなるのか。減反政策もかつては「今日の是」であったかも知れないが、いまや「昨日の非」ではないか。それがいつまでも留められたままであるのは是か非か。  ... Read More | Share it now!

平安建都1200年と祇園祭

 平安建都一二〇〇年の年を迎えた京都であるが、社会は出口の見えない不況に沈滞した空気に包まれている。この空気を吹き飛ばして、社会の活性化を図るには、どうすればよいか。このようなときは「先ずお祭りから」というのが昔からの常道である。祭りはハレの日であり、本来、生命の活性化を果たす役割をもっている。そこには信仰が生きている上、いつの時代にも人々が情熱を燃やして取り組み、護り通してきた伝統がある。例えば祇園祭を見ても、大いなる消費であり、これに費やすエネルギーは莫大なものがあるが、実はそのことによって社会の活性化がもたらされ、その経済における波及効果ははかり知れないものがある。  ... Read More | Share it now!

伊勢の遷宮

 伊勢の神宮では二十年に一度の遷宮(せんぐう)が行われた。内宮(皇大神宮)は十月二日、外宮(豊受大神宮)は五日、木の香も芳しい新宮にご神体をお移しする式である。両日とも天候に恵まれて、浄闇のうちに無事宮遷しを終えた。  奈良時代に天武天皇により定められて、持統天皇の四年(六九〇)に第一回の遷宮が行われて以来、中世戦乱の世に災いされて百二十数年中絶したことはあったが、今日まで連綿と続いて、今回で第六十一回である。戦前は国費でまかなわれていたが、戦後は憲法による政教分離の建前で全国民奉賛の形で全国から寄せられた浄財で遂行した。  遷宮は建物を建て替えるだけではない。ご装束・神宝のことごとくを作り替える。装束とは神さまの衣服や服飾品、お飾りの類であり、神宝とは神の御用に供する調度品で、これらは上代の文化と技術を現代に伝え当代最高の美術工芸家によって調整されるまさに生きた日本の伝統工芸品である。  昭和六十年用材の伐り初めに当たる山口祭・木本祭が行われて以来八年の歳月を費やして造営し、調製した。そして迎えた遷宮である。  当日は両宮とも天候に恵まれ、それぞれ数千人の特別奉拝者の拝する中、厳粛に宮うつしの儀が行われた。筆者は、外宮に参列の栄に浴したが、浄闇裡、松明(たいまつ)の明かりだけを頼りに、絹垣(きぬがき)という白布に囲まれたご神体を中心に約二百人からなる神職の奉仕による祭典は、まさに壮大な古代絵巻であった。遷宮は、最も古い原初の姿を保ちつつ、常に新たな生命の更新をはかるものとされているが、それは古代を甦らせただけではない。千数百年の歴史を通じて、繰り返し二十年ごとに行うことによって悠久の過去と永遠の未来につなぐ、大いなる時間の中に身をおいていることの感動であった。時間に追われて忙しい毎日を送る現代に貴重なひとときであった。  これは、もちろん極めて日本的な特色をもつ儀式だが、近ごろは外国の日本文化研究者が注目している。例えば、ミシガン大学のエヤハート教授は更新の儀礼とみて高く評価しているし、南山宗教文化研究所長ゼームズ・ハイジック教授は「(遷宮が)特定民族の所有に過ぎないのか、それともあらゆる人間の心に語りかけうる宗教的内容をもつものなのか」と問いかけた上、「キリスト教のゴチックの大聖堂と森の中にたたずまう素朴な伊勢神宮とは正反対の象徴のようだが、宗教心の深層を通して、この本来の儀礼と縁がある」と語っている。その上で内宮と聖堂内の聖櫃(ひつ)を対応するものとみてキリスト教も森の神道にならって、各世代ごとに「共にいます神」のこの宿りのしるしを作り直し、神体をそこに遷すという儀式を導入してもよいのではなかろうか。(「上代に架ける橋」毎日新聞中部版九・一八)と提案している。つまりキリスト教にも遷宮を、という訳である。神道を代表する最も日本的特質の顕著な伊勢の遷宮が、もっとも国際性のあることが、注目されていることを示している。そのようなことから今年十二月十一日国際交流会館でこうした「神道の国際性」をテーマに内外の学者が討議することを企画している。                                              ... Read More | Share it now!

ロシヤ人と神道研究

 昨年、わたしがオランダのライデン大学で神道の講義をしたとき、ユリヤ・ミハイロワさんというロシヤ婦人が来ていた。日本学の学者で、ソビエトの崩壊によって、ロシヤを出て、ライデン大学の客員教授をしていた人である。彼女は、自由民権の研究から神道に行きついた人で、著書に『本居宣長』があり、『大嘗会弁蒙(だいじょうえべんもう)』をロシヤ語に翻訳していて、わたしの大嘗祭や古代祭祀に関する著書を既に読んでいた。『大嘗会便蒙』とは、近世に大嘗祭を復興したとき、古儀の考証にあたった荷田在満の著述である。  暮も押し詰まったころに、突然、このロシヤ婦人から電話があった。「いま日本のさる大学に客員教授となって来ています。いろいろ教えてほしいことがあるので会いたい」というので、八坂神社に招いた。さらに資料を見せる必要から伊勢の皇學館大學にも連れて行った。その日は大学院の講義があったが、時間を割いて神道学専攻の院生五、六人と懇談した。  そのときの話である。彼女の云うのに、「ヨーロッパでは日本研究が盛んです。なぜかというと、日本は経済成長は世界でトップ、先端技術は最も進んでいるし、社会制度も社会主義国以上、それでいて非常に古いものが残っています。それはなぜかを知りたい。」という。雅楽をしている学生が、「雅楽は中国から伝えられたものですが、中国では度重なる革命ごとに、前代のものは根こそぎつぶしてしまいましたが、日本では政治的支配者の交替はあっても革命がなかったから伝統的なものが残っています。」と云った。彼女は、「ロシヤもかつてはトルストイ、ドストイェフスキー、チェーホフらの文学や、また音楽も優れたものがありましたが、革命ですっかり駄目になりました。」と語り、さらに次のようなことを云った。  「私は今、日本の大学でロシヤ文化と日本文化の比較文化論を講義していますが、日本の 学生は神道のことを知りません。それで私が神道を教えています。私を招いてくれた先 生は近世の儒学を専攻している教授ですが、大嘗祭のことを知りません。『大嘗会便蒙』のことも荷田在滿のことも知りません。だから私が教えています。これ、変ですね」と笑った。私も学生も大笑いしたのだが、実は笑い事で済ませる問題ではない。それというのも、神道といえば戦争の元凶のように思っているのが日本人。これは多分に誤解と偏見によるもので、その上、日本国憲法では国及びその機関は宗教教育をしてはならないとなっているため、公立学校では神道について一切教えていない。日本文化の本質は、神話や神社の祭祀、つまり神道を抜きにしては語れない。神道は日本人の生活文化の基礎であり、日本文化の核心に関わる問題である。そのことに着目して、ロシヤ人学者でさえ研究しているのだが、日本の学生も教授も神道のことを知らないで、ロシヤ婦人に教わっているという。「変ですね」どころではない話であろう。... Read More | Share it now!

祭りとイベント

 「祇園祭は壮大なイベントである」という言葉をしばしば聞く。ところがイベントという語は行事を意味するが、本来は一回限りの出来事とか、事件の意であるのに対して、祭りは神の存在を前提とし、神に祈り神をたたえて行うものである。それは儀礼を中心として、そこに風流や芸能を伴った賑わいの行事が加わり、祭礼ともなる。したがって「祭り」と「イベント」とは本質的に異なるものである。  近頃、行政サイドで行われる○○マツリが流行している。それが神社や寺院の宗教行事、つまり神の祭りと結び付いている場合はともかく、それらとは無縁の観光目的、ないしは単なるリクレイションである場合、たとえ多数の人々を集めることが出来たとしてもそのとき限りのものであって、永続させることは難しい。これを永続きさせようとして、毎年同じことを繰り返していると、必ずマンネリ化して飽きられる。何か目新しい企画をして人々の興味をそそらないと決して永続きしない。それがイベントである。  しかるに神の祭りは、本来、住民の内的欲求に基づき、生産の増大とか、災厄除去を祈り、また感謝するところに発し、その初心に還り、始源の状態を繰り返すところに特質がある。そして、少なくとも一年に一度は盛大な祭り行うことによって、社会の活性化を図ることになる。それ故、同じことを繰り返して飽きない。たとえ新しい要素が加わるとしても本質的な部分は変わらないし、変えてはならないのである。それが伝統を形成する。  地球上のあらゆる民族は社会生活を営む限り、大なり小なりそうした祭りを行って来たし、現に行っている。そこでは神の前に誓い、祈る、また神をたたえる、いわゆる祭りを行うことによって、集団の社会的統合を達成し、精神的連帯を強化するのである。祭りにはそうした社会的機能がある。  「祇園祭は壮大なイベントである」という言葉をしばしば聞く。ところがイベントという語は行事を意味するが、本来は一回限りの出来事とか、事件の意であるのに対して、祭りは神の存在を前提とし、神に祈り神をたたえて行うものである。それは儀礼を中心として、そこに風流や芸能を伴った賑わいの行事が加わり、祭礼ともなる。したがって「祭り」と「イベント」とは本質的に異なるものである。  近頃、行政サイドで行われる○○マツリが流行している。それが神社や寺院の宗教行事、つまり神の祭りと結び付いている場合はともかく、それらとは無縁の観光目的、ないしは単なるリクレイションである場合、たとえ多数の人々を集めることが出来たとしてもそのとき限りのものであって、永続させることは難しい。これを永続きさせようとして、毎年同じことを繰り返していると、必ずマンネリ化して飽きられる。何か目新しい企画をして人々の興味をそそらないと決して永続きしない。それがイベントである。  しかるに神の祭りは、本来、住民の内的欲求に基づき、生産の増大とか、災厄除去を祈り、また感謝するところに発し、その初心に還り、始源の状態を繰り返すところに特質がある。そして、少なくとも一年に一度は盛大な祭り行うことによって、社会の活性化を図ることになる。それ故、同じことを繰り返して飽きない。たとえ新しい要素が加わるとしても本質的な部分は変わらないし、変えてはならないのである。それが伝統を形成する。  地球上のあらゆる民族は社会生活を営む限り、大なり小なりそうした祭りを行って来たし、現に行っている。そこでは神の前に誓い、祈る、また神をたたえる、いわゆる祭りを行うことによって、集団の社会的統合を達成し、精神的連帯を強化するのである。祭りにはそうした社会的機能がある。  さらに祭りには生命の根源に対する感謝や崇敬が基調となっているのであるから、暮らしの中の道徳が生きている。これは行政サイドの○○マツリ、つまりイベントでは、いかに盛大に行われようと、有することのできない神の祭りに本有のものである。特に我が国の祭りの場合、あからさまに倫理徳目を掲げて教えを垂れるといった形ではなく、祭りの繰り返しの中で、祭礼行事の共同作業の連帯と協力の中で、おのずからに得られる観念である。  ... Read More | Share it now!

大嘗祭と倫理性

大嘗祭は、天皇が瑞穂の国の国魂を体現せられ、ニニギノミコトという稲の実りを象徴する存在となられる意を持つ儀礼である。国民はまたこれに御代の栄え、平安、清澄性、永遠性等を和歌や絵画や洲浜を以て表現し、理想の実現への願いを込めて祝福するものであった。この節会の部分を含めて大嘗会と称され、祥瑞をもって讃えた。祥瑞の表現には中国の封禅の思想の影響が多分にみられ、式次第全般にわたっても中国の祭祀制度によって整備されたが、しかも尚且つ中核をなす悠紀・主基の大嘗宮の祭儀は我が国古来の固有の儀礼を以て行われたのであり、国栖の古風、悠紀・主基の国風、語部の古詞、隼人の風俗歌舞、また倭舞、吉志舞、久米舞、五節舞等々、そこで演ぜられる芸能も古層の文化を再現して原初の時を回復する意を持つものであった。その点、大嘗祭(大嘗会)は壮大な複合文化であり、当代最高の文化の表象である。しかもその核心はあくまで天皇が皇祖より「齋庭の穂」をいただかれて、皇祖の大御神と御一体となられるという深秘の儀礼である。 すなわち「伊勢大神宮入れ替らせ給へる御方」となられる一瞬であった。そして一陽来復の朝、群臣の前に姿を現わし、天神よりの寿詞を受け、神璽の鏡剣を受けられたが、この方は持統天皇のとき以来、即位式の方に移されが、大嘗会辰日の節会の劈頭でも行われて、太古以来の伝統は護持された。 その中核となる大嘗宮の儀は深夜ひめやかに行われるが、その淵源を尋ねるならば、日本列島の津々浦々に至るまでの 邑落の共同体で、また家々でも行われたニイナメ儀礼に発し、ニイナメ儀礼は、およそ米を主食とする日本人にとつて、生命の根源、いのちのおやを称え、みおやの神より生命の根(いね)を授かることを象徴化した精神の営みであった。弥生時代以来一筋に稲によって生かされて来た我が国の民はこの稲の収穫を神よりの賜りものとしていただき、これを身に体して我が命を養ったのである。それが村々里々の鎮守氏神の祭りであった。その全国に広く行われた民間土俗のニイナメの祭りを統合して瑞穂の国の祭政の責任者である天皇の行われるのが宮廷の新嘗祭であり、その御一代初の儀が大嘗祭であった。それはそのまま日本文化の核心であり、民族の生命の根源となるものであった。 今日、米作りは曲がり角に来ていると言われている。安い輸入米との価格差の問題も有るが、農業人口が九〇%以上であった戦前の我が国と異なって、既に職業も多様化している上、未来の農業はバイオテクノロジーによる工場での生産に主流が移ろうとしている昨今、大嘗祭や新嘗祭のような農耕祭祀が意味があるのか、という疑問は有り得るであろう。文明の進歩、技術革新によって生産形態も大きく変わり、あるいは国際化時代の到来によって生活様式も変化した時代に、稲作りの祭りがどうのと、太古さながらの様式を繰り返していたのでは時代錯誤も甚だしいのではないか、それでは世界の進展に取り残されはしないか、そういう疑念を持つものもあって不思議ではない。だが、果たしてそうであろうか。 たしかに今では「手肱に水沫かき垂り、向股に泥かき寄せて(祈年祭祝詞)」といったような稲作りの労働は、耕運機によって既に昔の語り草となって久しい。いまや植え付け、除草、刈り取り、脱穀等一切の作業は機械で済ませることができる。先端産業はLSIから超LSIへと進歩の度を加えて止どまるところを知らない。しかしその行き着くところは決して幸福な生活が約束されているとは限らないことも万人の認めるところである。人間が便利のためにと作りだした物質によって予想もしなかった公害が生じていることにも明らかである。人間はこの事実を謙虚に受け止めて、自然のはからいにひれ伏して、慎み深く、自然に感謝する心と態度が要求される。技術が進歩し、世の中が便利になればなるほど、生命の根源に対する畏敬の念を以て、原始の時代から我々の祖先が慎み深く繰り返してきた精神の営みを大切に護り伝えていくことが何ものにもまして必要であろう。文明の進歩とは裏腹に、失われようとしている人間性を回復するのも、そうした原古の祭りの繰り返しの中に求められるものである。 二千年来、我々の父祖がそれによって生命を養ってきた米作りを中心とした祭りは日本の文化の核となるものであった。米は我々の父祖が二千年に亙って工夫と努力を積み重ねて今日のような高い生産性をあげることができるようになった。それが将来も日本人の主食であり続けるとは限らないかも知れないが、日本の風土と気候から言ってやはり米がもっとも高い生産性をもつことは間違いない。たとえバイオテクノロジーによる、生産形態の変化がいかなる農作物の生産を可能とするとも、少なくとも米は日本人の生命を養ってきた「生命の根(いね)」であった。それを神よりの賜り物として敬虔な慎みの態度を以て頂くという行為の中に無限の意味が含まれている。日本人は食べるという形而下の行為をも形而上の観念に高めてニイナメの儀礼とした。それは生命の根源に対する畏敬であり、物に感謝し、勤労を尊ぶ精神を育み、儒教の言葉を以て表現される種々の倫理徳目もこれを核として展開したのである。 このニイナメ儀礼は伝統のままに国家儀礼として天皇が行われ、とくにご一代一度の大嘗祭はそのもっとも根源的な儀礼である点で、日本文化の核となるものであった。ホルトムが「それはまさしくこの国の文化遺産の一部をなすものである」といったのはこのことである。そこには一切の道徳の根源がある。それは、教えを垂れるといった形ではなく、天皇御親ら神の恵みに感謝し、神より新穀を頂かれて、皇祖とご一体となられるという神秘の儀であって、深夜ひめやかに行われるが、古来の文化伝統のもっとも根源的な儀礼であった。歴史を通じて一貫する日本民族の理想はこの一点に集約して象徴される。それは壮大なデモンストレーションでなくとも、その儀礼に秘められた文化伝統は、現代の合理主義社会の中で忘れ去られ失われようとしている父祖伝来の一切の道徳を追体験する機縁となるものであった。 日本の社会のあらゆるものが変化し、文明がますます進歩して世の中がどのように様変わりしようとも、天皇の行われる大嘗祭だけは、太古さながらに始源の状態を維持しつつ祖型を反復して、原古の様式を伝えて行くことが、日本の生命を護ることにほかならない。 同時にそれは、人間の生命の最も根源的な部分に対する反省を以て、今日の世界が文明によって喪失しようとしているものを取り戻す最も象徴的な儀礼として未来に向かって示唆するところ多大なものがある。他のいかなるものが失われようともこの大嘗祭だけは失われてはならないぎりぎりの日本の生命であることを重ねて思うのである。 ... Read More | Share it now!