ハマ弓、ハマ矢

一月十五日の小正月の前後には、各地で弓神事がおこなわれる。

歩射祭、奉射祭、 ハマ弓・ハマ矢 、おびしゃ、墓目祭、御狩神事、御結鎮(みけち)神事等種々に呼称されているが、俗に 「ハマ弓・ハマ矢」と称し、 「ハマ」は「破魔」の字をあてて、文字通り除魔招福を祈る神事とされている。

一般に弓射は狩猟をかたどるところから、狩猟文化の名残とみるのが常識であるが、果し てそうかどうかは検討の余地がある。というのは弓神事は海辺の村々、神社に多いからである。 宮廷では正月十七日豊楽院、または建礼門にておこなわれた。

起源は仁徳天皇十二年七月条に 高麗国より鉄の盾と的を貢し、 これを射通した盾人宿称に的戸田宿称の名を賜ったとの記事があ る。

天武天皇九年正月十七日には浄見原宮の南門に射礼のおこなわれたことがみえ、この頃より 恒例化したことと察せられる。

平安時代に入ってよりの射礼については「儀式」「西宮記」「江家 この日、 豊楽殿前庭に射席を舗き、 山形を設け、標を立てる等のことがおこ 「次第」等に詳しく、 なわれ、また鳥羅十二硫、阿礼幡十二流を立てることが定式となっていたようである。

阿礼幡と いうのは、後述の御阿礼(みあれ)神事の阿礼木(榊を根こじにして立て神の依り代としたもの)に吊を取懸けた に由来する幡で、神の依り代としたものである。

 

折口信夫は、宮廷年中行事としておこなわれた諸弓は、踏歌後変として発達したものであろうと述べられた。

この日、 殿前の橘の樹の西に慢を張り度遍の形を据えたことが「西宮記』に記き し対く れているからである。

 

住吉大社では御結鎮神事と称して、 一月十三日におこなわれるが、「住吉大神宮諸神事 之 次第記録」や「住吉松葉大記」 によると、弓十番、賭弓三度あり、 畢 って上客殿にて饗膳があるが、 このとき 「偶子」の ことがみえる。

偲儒子、 つまりあやつり人形・からくり人形のことで、偲儒子は平安時代の後半、十一、 二世紀の頃上よりはじまり中世に盛行したが、その源流は海語部あまかたりべ が宮廷に寿詞を奏した呪術的芸能から派生した 「ほがいびと」に求められる。

偲儒子そのものは、中国から伝来 した技芸であるが、それを受け入れた素地には、「まれびと」が寿詞を奏し、主(あるじ)を祝福するという呪術的行為があり、それを異国びとである健儒子のお こなうことになったものということができる。

後述す るが偲儒子舞は安曇の磯良の伝説と関係あり、海人族のおこなった海の精霊の祝祷していること 「伊勢·志摩の海岸や島喚には弓神事が頗る多い。

浜鳥の宇気比神社の弓引神事は、正月十一日 におこなわれるが、祭典の後 「御田の浜」に集って 「盤の魚」と称してボラ二尾を調理し、弓射 は大的(直径三尺) 小的(直径一尺) 三度ずつくり返し、大的が終ると餅、串柿、神酒を供えた上、 子どもが集って的を破る。

破った的は浜で焼くが、終って小的に移り、最後の矢は沖に向って放つ。

 

小的を射る際、的に適中すると「祝直し」と称して翌日もう一度弓射をおこなうことこなっ ている。

答志島の美多羅志神社の八幡祭礼でも、旧正月十七日におこなうが、矢は弓にくくりつ けてあり、射ても矢は弓を離れない。

射手は射る所作をして弓と一緒に矢も握ってしまう。

いかにも呪術的な動作であるが、そこに弓神事のもっとも原初的な形がうかがわれる。

元来が的に適 中させることを目的としたものではないことが知られる。

それでは何であったか、それについて は後章に記すことにするが、少なくとも弓神事が、海浜·島峡に多く伝承され、魚の包丁式をと もなったりしているところからみて、どうしても狩猟文化というより、海を生活の舞台としてい る人びと、 すなわち海人族に固有の儀礼と考えられる。

してみると、「ハ マ弓・ハマ矢」は単純に 「浜弓・浜矢」としてよい ことになる。

2018年8月19日