住吉大社の御田植祭

はなやかさと洗練されていることで有名な住吉大社の御田植神事も六月十四日に 住吉大社の おこなわれる。

第一本宮(住吉大社は第一、 三、 三、 四の本宮より成る)に て 祭典 の 御田植祭 上、植女が神前の早苗を受け、奉仕者一同行粧を催して御田に渡る。

植女は、新一 町花街の芸妓が奉仕することになっている。

そのいわれは、もともと神功皇后が当社鎮祭の後、長門国から植女を召して御供田を植えさせられたにはじまり、植女は堺の乳守の遊女になったので、その縁により永く乳守の遊女たちが奉仕したが、明治維新に際して神田が民有に帰し、ため に中絶した際、新町廓が この田を買って献納し、撰妓を植女として奉仕せしめて再興したことに よる。

ただしこの植女はいわゆる花の植女で田には入らず、実際に田に入って植えるのは地元の農家出身の婦人による替植女である。

御田に渡る行列は、

御田講々旗―供奴 ― 陣鐘·陣太鼓 ― 風流武者 ― 源平旗 ― 甲胃武者·貝吹·雑兵 ―楽人 ― 金棒 ― 宮司以下祭員 ― 八乙女 ― 稚児 ― 御稔女 ― 植女 ― 大田主·奉耕者 ― 替植女 ― 田植踊の子等 ― 住吉踊の子等

で、第一本宮より行粧を催して御田に至り約20アールの御田を一周してそれぞれ控 所 に入るが、御田の中央には三間四方の舞台を設け橋がかりが取付けてある。

まず御田修杖の上、大田主が神水を注ぎ、 植女と替植女が舞台上で早苗の授受をおこない替植女は御田に降り立って植えはじめるが、植えている間中、舞台と田の畔とで次々に行事がくりひ ろげられる。

行事は、

神田代舞  田舞  風流武者行事  棒打合戦 田植踊  住吉踊

等である。

田舞は、同社の八乙女(神楽女八人) が伶人の奏する 鼓·笛·唄にあわせて舞うもので、 にみえる「ほととぎす 歌詞は『枕草子」 おれ かやつよ おれ鳴きて こそ田植うれ」とあるものが伝承されている。

神田代舞は、近年の創作にかかるが、新町花街から 選ばれた芸妓(一人)による御稔女が、舞い納める。

風流武者行事棒打合戦は、鍬形の兜に紺糸おどし の鎧を着け、黄金造の太刀を侃いた侍大将が、薙刀を 小脇に高足駄で、日の丸の軍扇をかざして威武を示す 所作事をおこない、ついで紅白両軍による物見・練込みがあり、陣笠・胴に身を固めた雑兵の少年数十人が 樫の六尺棒を打合わす。

田植踊は赤い樺に菅笠を被った早乙女らによる田植踊りで、素朴な土の匂の豊かな手振は、御田植らしい情感をそそるものである。

住吉踊は、白衣に黒の腰衣、赤い垂れをめぐらせ菅笠を被り、舞台中央で大傘の柄を叩きなが ら音頭をとるのに合せて、四人一組となって心の字に象って踊るとともに、田の畔では数十人が 踊りながら一周する。

約二時間、これらの行事が終る頃植付も終って緑の早苗が風にそよぐことになる。

津守棟国の 「諸神事次第記」や「住吉松葉大記,(完禄頃の人、梅園惟朝著)によると、鎌倉時代 には児師·猿楽·田楽僧が参加し、高足、尻巻、僧中風流などがあり、元禄頃はかなり退転した が、それでもなお練法師が鎧大口を着て高木履をはき、白布で頭をつつみ長刀を持って出てきて 風流があり、田楽·猿楽·呪師等のあったことが知られる。

植女が田に降りる時は太鼓を打ち、歌をうたって雌した。

田植に際してなぜこのように雌すの か。本田安次氏によると、田圃やそれに挿入する苗の機能を増進させようとしたものだとされて いる。つまり苗にこもっている稲魂をふるいたたせて、成長を促進させるために幾重にも雌すの である。

このようにして御田植祭は、瑞穂の国の稔りの秋を祈って、唄や隣しや踊り等、種々の芸能を 演じて予祝の行事としているのである。

それはおそらく、田植のはじまるとともにはじまり、時代とともに種々な芸能が加わって、それぞれの土地柄をあらわしっついまに伝承されているので あろう。

2018年8月19日