天神祭

都市の祭りで有名なものに大阪の天神祭がある。

大阪天満宮―天満の天神さんの礼で、祇園祭の山鉾に対して、こちらは船渡御で知られている。

天満宮はいうまでもなく菅原道真公を祭神とする。

菅公が藤原時平一派のざん言と好策によっ て大宰府に配流され、延喜三年(九○三) 配所に莞じた後、都の内外で起った打続く天変を、菅公 の怨霊のなせるわさと恐れられ、怨霊を鎮めるために天暦九年(九五五) 北野天満宮が創杷され、 また大宰府の墓所にも初廟が建立され(延喜五年、九〇五)安楽寺と称し、それが大宰府天満営と なっていくが、菅公配流の道筋にあたる由縁の地はもとより、菅公を追慕する人びとによって全 国各地にまつられた。

菅公の霊が、天神と意識されたのは、延長八年(九三〇) 清涼殿に落雷し て多数 の死傷者がで たことに起因する。雷は都市住民にとってはおそろしいが、農耕の民にとっては恵みの雨をもた らす天の神である。

菅公は怨霊と意識されたが、落雷を契機として天神に結びつくことになる。 京都の北野に火雷天神という地主神があった。もともとは年穀の豊穣を祈って雷神をまつった北野天神であるが、いつしか菅公の霊と合体して、公の霊をもまつったものとして庶人の崇敬をうけるようになったのである。

菅公の霊は一部の人びとにとっては怨霊と意識され、崇りをせぬよう創めるためにまつられたのであるが、一般の人びとにとっては、菅公は学問に優れ、書を能くし、むじつの罪におとされて人を怨みず、ひたすら誠をもって処した聖人(神)であった。

その 威徳は天に満ち満ちて大自在に示される神として信仰され、 「天満大自在天神」「天満大自在威徳 天神」「天満天神」と称された。

大阪天満宮は、菅公が延喜二年(九〇一) 大宰府に 配流され るとき、古く難波長柄豊碕宮の鎮護の神として鎮斎されていた大将軍社に参拝して、ここから乗船したという故事によって、天暦 三年(九四九) 村上天皇の勅願顔によって、大将軍社境内に省公をま つる天満宮が創建されたと伝える。

天神祭は、天暦五年(九五一)鉾流神事からはじまったと伝えるが、むかしは六月一日、 社の前の川中に鉾流島という砂洲があり、そこから神鉾を流して、流れついたところをお旅所とし、そこへ二十五日(現在は七月二十五日) に船渡御を元和 おこなった。

どこに流れ着くかは神意によるが、 元和六年(1620)より驚島の京町をお旅所とし、のち恵 美須島に移転、明治以後は松島に移って、そこまで船で渡御がおこな われた のである。戦時中 は中 絶した が、昭和二十四年復活、船の通行困難のため翌年から また中止、二十八年コースを変更して復活し、その後 もオイルショックその他で中止になったことがあるが 大阪の経済の地盤沈下を回復し、大阪商人の夏枯れを 払拭する意味の願いをこめてひきつがれている。

経済的な地盤沈下もさることながら、物理的な地盤沈下の ため満潮時には旧来のコースの橋の下を船がくぐるこ とができなくなり、現在は都島大橋までさかのぼるコースをとっている。

その規模は、神輿·鳳葦を奉安した船を中心に、お迎え人形船・ドンドコ船・離子船などの供奉船、 約百隻から成り、 両岸では大簿火をたき、舞楽や雑子を奏し、 さらに花火を打上げて盛り上げる。

これに奉賛するのは、 木場のドンドコ船、酒造販売業者の御神酒談による獲々人形、氏 子有志の天神講による獅子舞傘踊り、西天満連合神鉾講の神鉾·鉾流神事、天神橋筋商店街の御 羽車講、旧天満市場太鼓中の催太鼓、中央市場の玉神輿奉賛会、天満市場仲買の地車喋子、大阪 証券取引所株仲買人の北浜㈱団による網代車等々、各種団体による講組織で、これらの講社は崇敬団体であると同時に後援団体となっている。

実質的な天神祭の担い手である。

その祭りの参加者は約二万人にのぼり、さらにこれにお参り、ないし見物に集る人びとは約百万人を越すとみら れる。

天神祭は、戦後大阪の経済の「地盤沈下」に歯どめをかけて、活性化をもたらすものとして市一 民の念いがこめられている。

祇園祭が京の町衆の心意気を示すものとすれば、天神祭は大阪商人 のド根性をあらわしている。

そしてこの両祭とも、起源が御霊信仰に発していることも共通する 点である。

祇園祭は、疫病の退散を祈る都の人びとが、スサノヲノミコトのような荒ぶる神から昇華した偉大な神威をもってすれば、いかに猛威をふるう疫神も退散するものと信じられたところに由来する。

天神祭も、天に満ち満ちた威徳あらたかな天神(菅公)の霊威 によって、酷暑の 夏を越そうと するものであった。

鉾流神事は古来の襖被の行事に、けがれを流し去るために茅の輪や人形を水に流したことと表裏する風習である。

賀茂縁起では玉依比売が石川の瀬見の小川で襖をしていたとき丹塗の矢が流れてきたので、 取って床の辺に挿しおいたところ、はらんで男子を生んだ。

その子が賀茂別雷神となるが、 川上から流れてきた神の霊威によって若々しい神が生誕するという 説話である。

川は神霊の通路にあたる。

この場合は丹塗の矢であるが、矢や鉾は神の依り代であ った。

流れ着いた ところが神意にかなう地であり、神霊の坐す地としてそこで祭りをおこなうのであ る。

神のミアレの地であった。

矢や鉾はもとは葦や茅のような植物の葉であったろう。

そうする と祇園祭の茅の輪や綜とも通ずるものであることに想いいたる。

さらにその根源は 「茅編の矛」 (『日本書紀」に帰着する)。

少なく とももともとはやはり農耕社会 の祭り から発しながら、大阪という大都市の中では、それに適応した形の祭礼として発達してい ることがわかる。

しかもその根源には、はるかなむかしの原初の姿がなお生きているのである。

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