御霊信仰

祇園祭はもと祇園御霊会といった。

御霊会というのは、平安時代のはじめ、政治的 に失脚した人びとの霊魂が怨霊となって災厄をもたらすことをおそれて、この御霊 を鎮めようとしてまつったにはじまり、貞観五年(八六三) 早良親王、伊予親王、藤原吉子、橋逸 勢、文室宮田麻呂らの霊を神泉苑に招いて、 僧は経を説き、伶人楽を奏し、舞人唐楽を舞い、 雑 伎·散楽·芸能を競って、市民遠近より参集した ことが 「三代実録」に記されている。

貞観十一 年(八六九)全国に疫病が流行したとき、ト部日良暦が、これは牛頭天王の崇であるとして、 その 年の6月7日勅を奉じて全国の国数に応じて長さ二丈ばかりの矛六十六本を立てて祭りをおこない、同6月14日洛中の男児が神輿を神泉苑に送って災厄の除去を祈ったに由来するという。

長保 元年(999) 無骨法師が大嘗祭の標山に似せたものを作ったところから、次第に人びとの注目を集め、規模も大きくなり、散楽や空車も加わって盛んになった。

大嘗祭の標山は、 もとは根こじに した榊を立てて、そこに種々彩色した吊を懸けて北野の祭場から大嘗宮まで曳いてきたのである が、「続日本後紀」天長十年(833) 十一月戊辰条にみえる標山は、山の上に桐竹を植え、鳳風 や麟麟を配し、日月像を掲げている。

松や梅に人形を立てる等、 飾り付けをしたので、 これを見ようと人びとの群参した様子が 「中右記』に記されている。

祇園御霊会についても永長元年 (1096)には田楽50組 (約500人)が参加していることが『中右記』に 記されており、 この頃から田楽·猿楽のほかに風流·獅子も加わって賑わいを見せてくる。

標山は元来は農耕の祭りに起源をもつものであるが、都市的な祭りの中で発達変化して、祇園祭 の山鉾になっていく姿を見せているわけである。

室町時代も十五世紀中頃になると、町々の特色 L おおと ねり のある山鉾が造られ て、「山崎の定鉾、大舎人の 白川の鉾、処々の跳鉾、家々の笠車、風流 v キ い の造山、八捲、曲舞」と「尺素往来」(一条兼良、文明13年没、80歳)に記している。

応仁の乱前、 既に七日三十一基、十四日二十七基の山鉾の名が 『祇園社記」に記されているが、応仁の乱で都は一 灰燃に帰し、祇園祭も中絶したが、戦乱の世は逆 に町衆の団結を促して、天文 二年(1533) 「神 事コレ無クトモ、山ホコ渡シ度 シ」という要求が でてくる。

これは祇園社における神事は復興に至 らなくても、せめて町衆だけででも風流の行事を おこないたいという 意識のあらわれと みられ こうして応仁の乱以後、祇園会が再興し、 秀吉の天下統一により、寄町制や地之ロ米制も定まって桃山時代の豪華絢欄の風潮を受けに、山鉾の装飾にも整を尽すようになる。

近世には、たび たびの火災で多数の山鉾が焼失したが、その都度町衆の意地と努力と団結で再興し、今日にいた っている。

天明の大火で焼失した幽谷鉾が五十年の苦しみの後に、元治の大化での菊水鉾が昭和 三十七年に、同万十四年に綾傘鉾、五十六年に端螺山がそれぞれ一世紀余を経て復興した。

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