粽と蘇民将来

祇園祭の山鉾からは綜(ちまき)を投げる。

綜には、「蘇民将来之子孫也」と記した護符が 襟と蘇民将来 ついていて、人びとは これをこぞって受け、家々の軒に懸け、厄除けのしるしと する。

警察では危険だから止めてほしいという要請があったが、「神事だからやめられません」と 断ったのは、鉾町の役員さんの由。

「蘇民将来」というのは、「釈日本紀」所引の「備後風土記」逸 文その他にある次の説話に由来する。

むかし、武塔の神が旅して途中で日暮れになり、そこに蘇民将来と巨旦将来の二人がいたが 兄の蘇民将来は貧しく、弟の巨旦将来は富んでいた。

ここに武塔の神が宿を乞うたところ、 弟の巨旦は惜しんで貸さず、兄の蘇民は快く貸して粟飯でもてなした。年を経て八柱の子を 連れて再び来訪し、先のお礼をしたいと、蘇民とその家族には茅の輪をつけて疫病の災から 免れしめたが、その他の者は ことごとく死に絶えてしまった。

神は「われはハヤスサノヲノ 神なり、後世に疫病流行すれば、蘇民将来の子孫といい、茅の輪を腰につける者はみな免れ さす」と仰せられた。

これは備後国の疫隈社 (えすみのやしろ)の縁起であるが 「釈日本紀,には「これすなわち 祇園社の本縁なり」とある。

六月晦日の大被に、茅の輪をくぐって被を修することは全国各地でおこなわれているが、茅萱のような生命力の強い植物は、疫病の災害をも摺伏せしめることができるとの信仰があった からであろう。

その信仰は遠い祖先の農耕生活の中から生れたものであることも知られよう。

中世·近世の京の町は、都市といっても今日のような近代的都市ではなく、町内でおおかたの 物は整う自給自足の体制ができていて、農村社会の延長であったが、 しかもなお農業の四季の循環による祭りであるよりも、都市にありがちの災厄の除去を祈求した祭礼となったのである。

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