踏歌神事

宮廷の年頭儀礼にむかしは踏歌節会があった。

これをいまに伝えている踏歌神事が 熱田神宮(一月十一日)と住吉大社 (一月四日)にのこっている。

踏歌は、古くは「アラレバシリ」と訓んだ。踊り上って踏みしめる動作を「ハシル」といった ことによる。史上の初見は「本書紀』持統天皇七年(六九三D 正月十六日の条に、

是の日、漢人等踏歌を奏す。

とあるもので、後の『伊呂波字類抄」や「江家次第』に、天武天皇三年正月、天皇大極殿に出御 の上、これをおこなわれたに始まるとしている。

奈良時代は宮廷行事として、正月十六日を中心 におこなわれていたが、平安時代に入って十四日に男踏歌、十六日に女踏歌がおこなわれ、女踏歌は中世までは伝えられたのに対して、男踏歌は円融天皇の天元六年(九八三)を最後に宮廷では絶え、諸国の社寺に伝えられて、いまは熱田神宮や住吉大社にその面影をのこすのである。

 

踏歌は、元来中国におこなわれた行事で、唐代には正月十五、 六日の夜、都中に灯輪を飾り、 その下で数多の宮女が美服して手を連ねて歌い、地を踏んで歓楽したもので、わが国の女踏歌に はそれが伝えられた。 こ

れに対して男踏駅は、舞人が三反廻って列立し、言吹(ことぶき)が進み 出て祝ぎごとを述べ、袋持を呼び、袋持は唯と称えて綿の数をかぞえ、次いで催馬楽の絹鴨曲、 此殿を奏するものである。

 

『源氏物語』には男踏歌の有様を描写して、竹河の巻に「ぱんすんらくを御口すさびにし給ひつつ」とあり、 「ばんすんらく」とは 「万春楽」という御代の長久を寿ぐ歌章曲である。また同初音の巻に「高巾子の世離れたるさま、寿詞のみだりがはしき、をこめきたることも、 ことごとしく 取りなしたる」と記している。

高巾子とは冠の上につき出た巾子の格別大きいもので、これは異国の「まれびと」をあらわしている。

「ことぶき」の詞章のことさらに卑隈な内容を暗示している のも、宮廷を訪れて祝ぎごとを述べる、いわゆる「ほがいびと」が、もとは他界からやってきた 「原始的な精霊の類いであったことをうかがわしめるものである。

つまり、神(主上) が、そ の地 に居を占めると、もともと其処に居た精霊は他に追いやられることになって、彼らが年ごとにや S~ れびと ってきては嫌がらせをするが、やがて祝福に来る、それが「ほがいびと」で、異国の客人である。

そうした精霊の様子を「もどき」として演じていることになる。

踏歌は唐より伝わったというものの、わが国の古い民俗行事に由来するもので、それを外来のものとしておこなうのは「ほがいびと」は異国からやってくるものとの観念による。

 

因みに異国から祝福に来た「まれびと」には、西域の果からやってきた異様な姿の 犬もあった。彼らはやがて門の前で番をするようになる。それが高麗犬 (狛犬)である。

 

袋持が綿の数をかぞえるのは、綿の無限に増加することを期待する呪術的行為であり、催馬楽 の絹鴨曲·此殿を奏するのも、 殿ぼめ、 君ぼめであり、予祝の行事である。

このような行事が初春におこなわれるのは、春のはじめに大地を踏んで、 土地の精霊を鎮め、豊作を予祝し、養蚕の豊かならんことを祈ったのである。

自然や神をたたえ、殿舎をたたえ、祝福して一年の無事を祈った。

 

熱田神宮では一月十一日午前十時、詩頭一人、舞人四人、陪従五人、笛役一人、高巾子役一人、 雁使一人の所役が、まず末社影向間社にて「竹川半首」をうたい、舞人が卯杖舞を奏し、次いで 大前にて「竹川半首」をうたい宮司祝詞奏上、ついで陪従の「万春楽」「竹川」、舞人の卯杖舞、さ らに陪従の「浅花田」、舞 人の扇舞があって、詩頭 は詔文を読み、高巾子が 振鼓を振り、陪従は「何一 そもそも」をうたい、舞 人は順次大前にて三巡、 さらに別宮大幸田神社で も権宮司が斎主となり、 本宮同様奉仕する。

 

住吉大社 で は一月四日午後一時より直垂着 用の所役二人の中、一人 「は梅の楼を手に持ち戎神 としているが、言吹に当り、一人は袋持で大黒神としている。

第一本宮にて斎主祝詞奏上の後、袋持は社前庭上に出て第 一本宮に向って立ち、言吹役が 「ふくろもちー」と呼ベば 「おーともよ」とこたえて三歩ずつ歩 み、かく呼びかく応えること三度、両者互いに行き違ってその位置を換え、袋持はそのまま神前 に進んで袋の中の小併を取り出し、「ひ·ふ·み·よ·ご·と」とか ぞえなが ら案上に状げ、「万歳楽、万歳楽、万歳楽」とi三度唱え、拝礼して本座に還速る。

次に「白拍子」「熊野舞」の 神楽を奏する。

 

住吉の踏歌神事は、鎌倉時代文永年中の記録 「住吉大神宮諸神事之次第」(津守棟国)によると 「夜間の儀で、此殿や田中井戸をうたい、言吹 ,練童 · 練男(ニ十人)が舞をまい、釈文を奏し、綿 「の数をかぞえる等のことも宮延の行事にほぼ近いことをおこなっていた。

このように宮の行事が諸国の神社に伝えられたものは少なくないが、元来がわが国に古くか らおこなわれた固有の農耕俊礼で、宮廷において外来の要素をも混えながら集成され、洗練に洗 練を重ねて伝承されたものが、諸国の神社に逆輸入 されたものである。

したがっていずれが先、 いずれが後ともいい難い。とくに神社には固有の信仰が生きているだけに、それが保存伝承され るのにきわめて自然であったわけである。

要するに踏歌は、春のはじめに大地を踏んで土地の精 霊を鎮め、除厄と招福を祈る意義をもっていたが、 唐では宮廷の盛儀を誇り、帝王の徳を讃えて 華やかな行事となったのに対して、 わが国ではその性格は女踏歌に受け継がれ、元来の地霊鎮斎 の性格は、 わが国固有の農耕予祝儀礼と結びっいて、それが潤色された形で男踏歌となり、奈良 時代以来宮廷年頭の行事となった。

男女が別れたのは風俗素乱のかどによるものという。

男踏歌 「は平安時代の中期より宮廷では廃絶したが、諸国の神社に伝えられ、初春の予祝儀礼としていま も熱田や住吉の神前でその遺風を伝えているのである。

2018年8月19日