父、真弓常忠

今から二年前、父は陛下の御譲位報道をみるやいなや、「大嘗祭」(国書刊行会版)「大嘗祭の世界」(学生社)の二冊の本を再版しないか、と出版社に問い合わせるよう私に命じた。即座に発行にむけて進めることとなる。

全く、その日その時、即座に行動へと動く性分はずっと変わらない。

紙媒体での出版に対していい回答が得られなかったので、親戚の大矢亮一氏と長男・明久(はるひさ)の協力で電子書籍で発行しようということになり写真や資料、絵図の準備をはじめた。

新しいもの好きな父なのでテスト版で作った『大嘗祭について』(平成二年刊 茨木県神社庁刊)を変換し、ipadでページをめくって楽しんではいたが、昨秋になって『大嘗祭』を筑摩書房・ちくま学芸文庫で、また再建された学生社より『大嘗祭の世界』は新装版として再版されることがそれぞれ決まり、父は大変喜んでいた。

二冊は異なる視点で書いていて、最も未来へ伝え遺したいものだったに違いない。

 

今年1月19日誤嚥性肺炎で急遽入院。二月になって、刊行本のあとがきを病床で確認しながら「このあとがきが真弓常忠の絶筆になるな」と言った父の言葉が耳に残る。

ちょうど二社の出版の連絡がほぼ重なり、表紙デザインを見せたのだが、筑摩書房の発行が4月10日、学生社は次の元号が決まってから印刷するそうだと伝えると、 「ちょうど葬式のころやな」 「だれの?」 「わしの葬式やがな」と言った。

そのころはまだ2月23・24日の予定で「平成の御大典写真展」を企画し、神社本庁から「平成の御大典写真パネルと絵図」をお借りしていた頃であり、数歩も歩けるまでに快復していたので、地元の子どもたちにむけて、父から大嘗祭についてのお話をしてもらえるものだと思っていた。

 

 

今にして思えば、今から約70年前、昭和23年5月24日に帰幽した祖父・真弓栄一の最期を父常忠が書いた一文があるが、父自身の穏やかで静かな最期の姿とその一文が重なるのである。

祖神の御跡したひておふけなく踏み分け初むる道のひとあし 死に直面した父の詠草十数首の最後の一首である。これが辞世となった。この歌を紙片にしたために数日後、父は逝った。平素からの父の言葉でいふなら、「高天原の神々のみもと」に赴いた。静かな、安らかな父の最期であった。(中略)

月次の祭に集った人々を前に、一ヶ月後の死を自ら告げた。未だかくしゃくとして見える父の姿に接した人々は、誰もその言葉を信じようとはしなかった。けれども、父はその頃既に冷厳な死期をはっきり自覚して、自ら精神の安定をはかってゐたのである。

身を守る神は何処と尋ねれば尋ぬる心身を守る神 黒住宗忠書翰集より、左の文章を書抜いてゐる。

「何事も天命に御任被成候より外者無御座候。追々者宜敷事も出来可仕と奉存候」(八八九号)

「何事も天命に御任せ兎角下腹に御心をしつめ云々」(九〇号) 宗忠大人の「離我任天」の教えは、父の信仰の目標であり、到達点であった。

何事も天に任せし我なれば生死ともに苦にはならまじ 己の死期を知って、淡々とこれを迎へようとする心境を、父はかう詠んでゐる。 

(『かみのみち』父の最期 昭和四十二年刊 明文社)

 

祖父・真弓栄一は黒住教大道教会所長で本部布教部長を務めていた。曽祖父・真弓常吉(安政五年生)が明治初年大病を患い、黒住宗忠の教えに帰依して治癒した。

この縁により、神道黒住教の教会を開いたという。

昭和初期、大阪・長堀通の拡張のために空堀のところ(上本町三丁目)から天王寺区勝山通に移転し、引き続き黒住教教会をしていた。祖母は貧乏な生計を支えるために毎夜縫物をして、父の学費をこしらえていたそうで、それに応えるべく父は常に勉強していたと聞く。

戦前の大学進学は大変厳しく狭き門で、残っていた添削問題が驚くほど難しい。そうまでして入学した神宮皇學館大学であった。

 

学徒出陣によって学業半ばで入営しやがて終戦の後、神道指令の及ぶところ神宮皇學館大学の廃学となり、復員後半歳にして父もこの世の人でなくなって、わたしは戦後の思想界の混乱の波のまにまに右往左往しながらふらふら過してしまった。本を売ってしまったのもその頃だった (中略)

父は、わたしのために乏しい財布をはたいて、よく書物を買ってくれてゐた。(中略)父が集めてくれた蔵書約五千冊は、先年わたし自身が招いた窮境に際して、こともあらうに悉く売り払ってしまった。悲しみに充ちた父の顔を想ひ浮べながら、わたしは心の中で許しを乞ふばかりであった。

(『かみのみち』父とわたし より)

 

父が学徒動員で戦地へ、終戦後は二年シベリア抑留されている間、大阪は空襲で焼け野原となったが幸い自宅は戦災から免れ、終戦後、祖母は子どもを数人抱えた家族を自宅の二階にしばらく居候させたそうで、この人がのちに住吉大社に奉職する仲介することになったらしい。

復員後は、廃学となった皇學館への復学ができず、中学・高校で教壇に立つこと三年。シベリア抑留中には日常会話程度のロシア語ができていたそうだが、改めて大阪外国語大学ロシア語科で学び直す。

その後、黒住教の縁で婦人服飾卸「株式会社 根来」の監査役として船場で商いを三年つとめる。そのあと昭和29年4月には、真弓書房という出版社を立ち上げ、ファッション雑誌「フエミナ」を編集・出版するも半年で倒産。

本を含め家財道具一切合算差し押さえられ、多額の借金を抱えた。この雑誌を今読み返してみると非常におしゃれなモード誌で面白いと思うのだが、そのころ普及してた雑誌よりもインテリジェンスな高級志向だったとのこと。

少し時代が早すぎたようで、全く売れずに在庫の山を抱えたそうだ。このことを父は生前自分の経歴で全く触れずにいた。 

しかしながらこれが転機となり、よく「バランスシートの読める神主はいない」などと言っていたが、船場の商いと会社設立などの経験が、のちの“事業”に生かされていくことになるのであろう。

つづいて、「昭和30年7月10日 神職として人生の再出発をなす」と日記に遺されている。

 

常にいくつもの仕事を抱え、いつも机に向かって文章を書いていた。

いつだったか、かつての真弓家が飛鳥・高取藩・植村藩主に仕えた祐筆(秘書役)であったとのことから、文書を書くのは家業かと問いた私に、今頃気づいたのかと言わんばかりだったのを思い出す。 

論文、随筆、小説まで書き、さらに編集と出版が結局大好きなことだった。

朱鷺書房の許可を得て「日本の祭と大嘗祭」というWEBサイトのを作ろうと、晩年は自分の本を読み返しては校正していた。

今回、出版社より再版となったが場合によっては発行するつもりで、掲載されている絵図や図面を何度か宮内庁書陵部を訪ねて撮影したが、私にとって最後の父の仕事に携われたのは非常に有難い経験だった。

この四月一日、新元号「令和」発表と書かれた夕刊紙面を、父は目を見開いて確認した。四月三日午前四時二十一分、帰幽。

その直後、自宅に帰ってまもない父の枕元に『大嘗祭』の文庫本が届く。

学生社の『大嘗祭の世界』は「令和元年」と入れての印刷予定だったので、一目見てほしかったと編集者の方を悲しませることになったが、最期まで現役を全うさせていただけたのは編集者の方々の尽力によるものであり、大きく心が痛む。

 

古代祭祀の研究者でありながら時代の最先端に詳しく、未来をみていた父が、今秋の大祭のために私たちに着々と準備させ、 この八月から父の本では初めて電子書籍での配信がはじまるのを思うと、新しい時代へのメッセージが聞こえてくるようだ。  

 

(父、真弓常忠『故・真弓常忠先生をしのぶ会』誌 掲載)

長女・富澤裕美子

 

2019年6月23日